8月もそろそろ残すところ、4日となりましたね。
僕の子供の頃には、夏休みの宿題が、全部溜まって来て「そろそろやらなきゃなぁ〜。面倒臭いけれども。」
と云う時期でしょうか。
それは、今もあんまり、変わっていなくて、BLOGもこの時期に「そろそろ、溜まったものを書くかなぁ〜」
と云う事で筆をとっている感じです。
まぁ、今年は、異常に暑い夏で、台風も沢山来ましたし、これからも沢山来そうですし、6日前の8/22日には、
こちら関東地方には、モロに台風が上陸しまして、藤沢市でも「避難勧告」が近所のスピーカーから鳴りましたが「大丈夫だろう津波は」と、な〜んにも、心配していませんでした。
河川が近い場所は、相当に水かさが増して、ちょいと、避難しないといけないかも?とは、思っていましたが、
海辺は全然、大丈夫でした。
『BTTUセッション3周年記念キャンペーン特別企画』で、結構、忙しい時期でもあり、8月25日には、お陰様で、
44名さまのご予約が全て、埋まりまして、9月の上旬位までは、ご予約の方々へのセッションの提供で、
毎日、忙しい日々が続きそうな僕で、夏休みと云うものも、特に儲けませんでした。
『BTTUセッション3周年記念キャンペーン特別企画』へご参加して頂いた方々の皆様、
大変ありがとうございました。キャンペーンのご報告や、ご感想等は、又の機会に譲るとしますね。
今回は、6月頃に、実家の大掃除をしていた時に、発見された、面白いもののお話と、
6月に書こうと思っていた事を、それぞれ書きますね!
【僕の赤ちゃん時代の宇宙文字(!?)、発見される!】
6月に、両親の代行で、沢山のモノを処分しに帰省していた折に、細かく、仕分けをして、ドッサリと、不要なものを処分した後に、母親に「こんなものが出てきたわよ」と初めて見る「黄色の一冊の本」。
「赤ちゃん日記」とある。
「母子手帳」は見た事がありましたが、これは、全然、記憶に無く初めて見るものでした!
まぁ、それは、当たり前なんですが、どうやら僕が産まれた1966年〜68年にかけて、母親が付けていた
「出産・子育日記」みたいなものである。
「ふ〜ん」と母親と一緒に眺めていたら「あれっ、変な、文字があるけれども!!!」と僕が発見しましたが、
どうやら、自分が1歳だか2歳頃に描いた「ラクガキ」と同じ、ボールペンのタッチなんですが、読めない文字が!!
自分でも「さっぱり記憶が無い!」
「ラクガキ」は、描いた記憶があるんですが、この「妙な文字」に関しては、全く記憶が無いし、読めない!!!
「あ〜??、宇宙文字か何かだろうかね〜!?」としか思えない‥‥。
大体が、小学校6年まで「右脳」だけしか使って来なかった人間なので、文字は「絵や記号にしか見えない」。
意味とか、殆ど、中学に上がるまでは、理解できず「詩(し)」って云うのが出できた時に「???」と云う具合で、
さっぱり解らず、概念が解ったのは、思春期に自分で洋楽を聞き出してからで、
それまでは、「単なる短い文」としか思っていなかった始末(苦笑)。
今でも、楽譜すら、実は、碌に、読めなくて「耳で全て捉えている」♪
それでも、録音したものを他人に聴かせると「楽譜よめるんだね?」とか云われるも「いや、全然なんですが‥‥」
と云う感じ(笑)。
実は、小学校に上がる前に、漢字を文字としてで無くて、なんと云うか、例えばバスの絵を描くと
「右脳」で「写真眼的に」覚えた「形状」等を「再現」していると云う「ある種の、写実」をやっていた様な
もので「東京急行」って云う文字をバスの車体に書いてあったのを、小学校1年の頃に「再現」して、描いたら、
小学校6年生の人達に「天才少年じゃ無いの?君?」とか云われた記憶はあるんですが、小学校のその後の6年間は、
ズッーと落第生街道まっしぐらでした(笑)。
そんな僕だったので「文字」には殆ど興味は無くて、無理やり読んだ書物は
「伝記3冊」程度と「まんが発明と発見のひみつ」と云う本位しか覚えていない。
今でも「小説」を読むのは苦手です(なんでかと云うと、最初から読まないと、ダメで、途中から読めないから、笑)。
だから「文字」を書く筈が、どー考えてもあり得ないんですよね!
そもそも、僕は、全然、喋らない子供で「おし(耳が聞こえず、喋れない事を指す、昔の差別用語)じゃないかしら?
この子は? 」と周りの大人達に云われる程、「うん」とも「すん」とも、全然、喋りませんでしたですし。
(今は、凄く、お喋りになりましたが、笑)。
故に「宇宙情報」をダウン・ロードしたものを記録したとしか、思えない。
2011年頃に「宇宙語講座」を受けて、喋ったり「宇宙語の翻訳」を頼まれたりして、
翻訳しに行っていた時期もありましたが、
もう、全然、やっていないんで、回路が錆び付いて、今は全然、喋ら無いですし、当時、喋っていたのも、夜中に、友人と、と或る場所に泊まっていて、寝ている時に「宇宙語みたいなものを喋っていて、煩くて、眠れなかったよ!」と云う感じで「意識的に喋る」と云う事も、殆ど、やっていませんでしたし。
まあ、だから、信頼できる「高次元存在」と繋がれる人に、いずれ、観てもらおうと、思っている位です。
(僕は、所謂「リーディング」や「チャネリング」「異言」を喋ると云う人々に関しては、ものすごく、煩くて、
アクセスしている先が高次元存在じゃ無い人(大抵は「幽界」です)は、ハッキリ言って、避けている位ですから)。
今まで、僕が、認めている「自称チャネラー」と云うのは、5人も居ないですから。
その殆どが、外国人ですし、日本人では、信用できる人は、殆ど、いませんですから(きっぱり)!!!
僕自身も「チャネリング」はしませんし「リーディング」も基本的には、やりません。
簡単に「その方の気配を読むとか、ヴァイブレーションを観る」程度に留めています。
そんな、僕も「チャネリングが始まりそうになった事」が、実は、2012年頃にありました。
その時に、所謂、今流行りの「一暼体験(いちべつたいけん)」と云うものは、数時間ですが、体感しました。
つまり「ワンネス体験」「悟り体験」「非二元性体験」「ノン・デュアリティー体験」と云うものですかね(?)。
だけれども、審神者(さにわ)も居ないし、客観性が持てないですし、危ないので、敢えて、止めています。
所謂「チャネリング講座」と云うものも、沢山ありますが、敢えて避けています!!!
だからこそ、ちゃんとした「高次元存在と確り繋がれて、表現力の確りある(ここ重要で、非常に気を付けたいポイントです)方」に、いずれ「僕の赤ちゃん時代の宇宙文字」は、見て貰う事にします!!!
【THE BEATLES来日50周年記念と、ジョン・レノンとの内的邂逅】
1966年は50週年記念が沢山ありまして、4月14日の自分の50歳の誕生日の頃に、THE BEACH BOYSの名盤
「Pet Sounds」の50周年記念LIVEツアーで、丁度、ブライアン・ウィルソン:BRIAN WILSON
も来日していましたが、皆さんにもっと、馴染みがあって、その後の日本の音楽にも、否、世界的なムーブメントに大きな影響を与えた、ザ・ビートルズ:THE BEATLESが日本へ発来日したのも、1966年の6月29日でした。
実際、コンサートは、6月30日、7月1日、7月2日の3日間、行われた。
この年一杯くらいで、ザ・ビートルズ:THE BEATLESは、コンサート活動を中止し、以後、スタジオ・レコーディング活動のみが中心となっていく。更に「超越瞑想:TM瞑想」の創始者「マハリシ・マーハ・ヨギ」の居るインドへ行ったりして、翌年の1967からは「サイケデリック・ムーブメント」が世界的に起こり、ある種、1966年は、大きな変わり目の年ともなった。
実際、日本公演は、アルバム「ラバー・ソウル:Rubber Soul」と「リボルバー:Revolver」の丁度、中間の時期で、サイケデリックの香りが、ファッションや音楽に、既にほんのりと出ている。
1966年には、ジョン・レノンは、オノ・ヨーコと11月に出会っているし、実は「ストロベリー・フィールズ・フォーエヴァー:Strawberry Fields Forever」と云うサイケデリックな曲はジョン・レノンが1966年に既に、書き上げていて、アルバム「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド:Sgt.Pepper's Lonly Hearts Club Band」に先駆けて、1967年にシングル・カットされている。
更に、アルバム「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド:Sgt.Pepper's Lonly Hearts Club Band」は1966年のビーチ・ホーイズ:The Beach Boysの名盤である「ペット・サウンズ:Pet Sounds」と云うアルバムの影響を受けてもいる。
1966年は、ビート・ジェネレーション作家(ジョン・ケルアック、アレン・ギンズバーグ、ウィリアム・バロウズ等)の影響から産まれた反戦フォーク・ミュージックや、POP ART:ポップ・アートの画家のアンディー・ウォーホルのアァクトリーと言われる所から、産まれたバンドであるヴェルヴット・アンダーグラウンド:Velvet Underground等の、影響なども濃厚であり、ドラッグ・カルチャーから流れる「サイケデリック文化」の最初の年と言えなくも無い。
今では、ロックやポップスのコンサートを演奏するのは、武道館では当たり前ですが、それを最初に、やったのは、
他ならぬ「ザ・ビートルズ:THE BEATLES」であって、当時は「武道の殿堂で海外のロック・ミュージックなんて不良な音楽(当時は不良の音楽だと、当時の大人は、大真面目に捉えていた)の生演奏会をやるとは、言語道断!!」と
喧々諤々だった様です。
まぁ、あれから、半世紀経って、今や、ロック・ミュージックも普通の存在となり、そこ彼処に溢れていますよね。
僕は、ジョン・レノンとは、どうも、違和感が無いと云うか、生きていたら一番会いたい人物の1人でもあります。
1980年の中学2年生の暮れも押し迫った12月初冬に、ジョン・レノンは凶弾に倒れ還らぬ存在となりました。
当時オノ・ヨーコさんと2二で、新たな音楽活動を再開し始めて「ダブル・ファンタジー:Double Fantasy」と云うLPを出してヒットしていた半年後に亡くなりました。
僕は、2000年に、ジョン・レノン・ミュージアムが出来たばかりで、ちょっと経って、空いてきたある日、
埼玉のスーパー・アリーナに在った、ジョン・レノン・ミュージアムへ1回だけ行きました。
ミュージアムへ入ると、先ずは「ジョンとヨーコ」のショート映画みたいなものを観る場所から入って、
ジョン・レノンのザ・ビートルズ:THE BEATLES時代のギター(リッケン・パッカー325、エピフォン・カジノ、等)の本物が置いてあり「ほう、ふむふむ」などと、繁々と観て、段々とオノ・ヨーコさんの前衛芸術のコーナーへと
グラデーションしていって、最後に、ミュージアムを出る所に「ジョン・レノンの言葉」が英語と日本語で、幾つか、ガラス張りの出口に書いてあったんですが、僕は其処で「思わず、涙腺が緩んで来た」のを記憶しています。
確か「僕は、僕のやり方で、やって来たけれども、君は、君のやり方で、世界を変えていこう!」みたいな内容の
言葉でした。
元来、僕は、失恋とか、受験失敗とか、そんなちょっとした事では泣かない人間なんですが、感動したから無くと云うのとも、全然、ニュアンスが違うんですよ。帰宅して、なんとなく、ミュージアムのカタログを眺めてシャワーを浴びていたら、
ダーっと!
涙が意味も無く流れてきて、グジャグジャに泣いていて「はて? 何故、僕は、泣いているんでろうか?」と思いつつも、涙が止まらない事がありました。
「一体、全体、あの現象はなんだったんだろうか??」と思っていました。
その後も、岡本太郎さんや、カール・グスタフ・ユング博士、でも、似た様な現象が起きましたが、
その後、冷静に色々と考えてみたんですが、それは、
僕が「地球意識」と「宇宙意識」に触れた瞬間でした。
その媒介トリガー役として、ジョン・レノンが最初のきっかけになった訳です。
それまでは「ジョン・レノンは、まぁ、ザ・ビートルズ:THE BEATLESのリーダーで、メンバーで、好い曲を作るアーティスト」くらいにしか思っていなかったんですが、それ以来、ジョン・レノンは、
僕にとって、親しみのある存在となりました。
所謂「陰謀説」では、ジョン・レノンは、闇の組織に暗殺されたと云う「定説」もあり、
まぁ、そう考えた方が、どう考えても、しっくりくるところも無きにしもあらずと言った感じである。
まぁ「世界は狂人に支配:コントロールされている」と云っていましたからね。
ビートルズの最後の方のアルバムの「Come Together」の歌詞で、彼は、ビートルズ時代のショウ・ビジネスと決別しているのがよく歌詞から解りますしね。オノ・ヨーコさんの存在がジョン・レノンをそれに気づかせるきっかけになったとは、思いますよね。
オノ・ヨーコさんが80歳を超えた今でも、活発に平和運動をされているのも、
ジョン・レノンと一緒にやって来た「意思」を持って続けられているからだと云うのは、よく解るんですよね。
ジョン・レノンって、神格化されやすい存在だと思うんですが、僕は、あんまりシリアスに神格化したくは無いですし、茶化しやふざけているシーンなんかは、無邪気で、
非常に好いユーモア・センスの持ち主だなと、今でも、感じますね(微笑)。
おまけですが、僕が、何故「辻堂」と云う場所に、今、住んでいるのかと云うのが、
近所の友人の指摘で解ったんですよ(まぁ「軽井沢」にも、小学校の頃は、別荘があって、よく行っていたので、
すれ違っていたかもですが、その頃は、あんまり、ビートルズもジョン・レノンも知らなかったですから)。
オノ・ヨーコさんのご実家が、かつて「辻堂」にあったんです(今は無いですけれど、僕の家から、歩いて行ける距離です)。生前は、よく「辻堂」近辺をジョン・レノンがフラフラと、ラフな格好で、散歩していたらしいと、聞きますから。
何かと、親しみを感じますです。
最後までお読みになって頂きありがとうございます。
感謝!
僕の産まれた時の東京の雰囲気も観れますね。
僕の、カラオケの18番でもあります(笑)
1980年「Double Fantasy」からのシングル・カット!!
ジョンの茶化しや、おふざけは、無邪気で、ユーモア・センスがあって好きだな〜
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